20年ぶりに横浜芸者が復活!? 横浜ならではの芸者ってなに?
ココがキニナル!
横浜に芸者さんが復活したそうです。横浜最古の料亭田中家さんが芸者さんを持ちはじめたそうで、とても気になります。昔は横浜も京都みたいな街だったとか!花柳界の歴史も知りたい!(花柳界が好きさん)
はまれぽ調査結果!
当初は田中家専属だったが、現在は横浜芸妓組合として3人の芸者さんが活躍。かつて横浜の花街を彩った、横浜ならではの芸者を目指し日々進化!
ライター:関口 美由紀
神奈川における、かつての花街や花柳界については、「井土ヶ谷の花街」「磯子の花街」「鶴見三業地」「老舗料亭『田中家』」などで、はまれぽでも何度も取り上げているテーマだ。
そして今回、「横浜に芸者が復活した」というキニナル投稿をいただき、さっそく調査を開始した。
インターネットで調べてみると「横浜芸妓組合」なるものがあった。この組合は、横浜の芸者さんが立ち上げたようで、取材を打診したところ、快く引き受けてくださった。
横浜の芸者
昭和30年代。当時はハマの日本橋と呼ばれにぎわっていた南区吉野町界わい。そこは50軒以上の置屋が軒を連ねる、横浜一の花街だった。名だたる要人が東京から通いつめるほど、横浜芸者は美人ぞろいの芸達者で有名だったという。
しかし、高度経済成長期が終わると、オイル・ショックや円高不況などのあおりを受け、多くの料亭が厳しい状況に立たされることとなる。盛り返したかに思われたバブルも崩壊し、昭和から平成に時代を移すと共に、お座敷を持つ料亭は激減。それと共に横浜の花柳界(かりゅうかい)も衰退の一途を辿ることとなった。
時代の流れとともに、芸者は減少した(提供:横浜芸妓組合)
やがて1997(平成9)年を最後に、横浜固有の芸者は姿を消すことになる。それから20年。2017(平成29)年、横浜芸者が復活。
当初は田中家専属ということでお座敷に出ていたが「せっかく復活した横浜芸者なのだから、座敷に拘らず自由に活躍してほしい」と、いう田中家さんの後押しもあり、現在は横浜を中心に広く活動されているとのこと。
横浜市内某所。横浜線の走る町にある「横浜芸妓組合」へ
見晴らしのいい高台
今回、お話を伺ったのは、横浜で芸者をされている富久丸(ふくまる)さんと、お弟子さんの香太郎(こたろう)さん、横浜芸者のプロデューサーでもある神楽師(かぐらし)の加藤俊彦(かとう・としひこ)さん。
(左から)香太郎さん、富久丸さん
神楽師としてご活躍の加藤さんは、はまれぽ読者
東京で芸者として活躍していた富久丸さん。神奈川出身ということもあり、横浜の花柳界を復活させようと奮起し、2017(平成29)年4月に、老舗料亭の田中家にて芸者の命ともいえる鬘(かずら:髪飾り)と裾引き着物の準備を整え、「横浜の芸者」としてのお披露目会を行った。
当初は田中家専属だったが、田中家さんの助言もあり、同年夏に「横浜芸妓組合」を立ち上げた。そこに、弟子である香太郎さんと、今回は残念ながら出席できなかった富久駒(ふくこま)さんが加わり、現在は3名で活動をしている。
「横浜芸妓組合」所属芸者。(左から)香太郎さん、富久駒さん、富久丸さん(提供:横浜芸妓組合)
お座敷を笑いで盛り上げる男踊りの名手でもある香太郎さんは、当初、「日本舞踊を通じて何かお手伝いできれば」と軽い気持ちだったというが、富久丸さんや加藤さんの「もう一度、横浜芸者を復活させたい」という熱い心意気に惹かれ、門下になったそう。
場を盛り上げるのが大好きな香太郎さん。まさに天職!
香太郎さんは「私は横浜の生まれではないのですが、生まれ育った土地は、かつて人がたくさん来てにぎわう町でしたが今は静かな町になりつつある場所なんです。だから、繁栄を復活させたいという気持ちは分かるので、しっかりお手伝いしよう、と思いました」と話してくれた。
お座敷だけではなく、ステージでも舞う富久丸さん(提供:横浜芸妓組合)
横浜愛がつまった『濱自慢』
横浜芸妓組合のプロデューサーの加藤さんは、生まれ育った地元横浜で神楽師として伝統芸能に触れる中で横浜古来の歌や踊りの文化が薄れていると感じていた。
「東京とは違う、横浜ならではの芸者を、と、考えた時、横浜の民謡や俚謡(りよう:地方で歌われる唄)といったものをどう伝えるかというのがポイントだと思いました。自宅で母が保管してくれていた古い冊子があるのを思い出し、これだ! と思ったんです」と、『マイウェイ No.69』という小冊子を見せてくれた。
横浜港開港150周年の2008(平成20)年に、財団法人はまぎん産業文化振興財団が発行した、少々古い冊子である。
財団法人はまぎん産業文化振興財団『マイウェイ No.69』( 監修・文 平野正裕氏)
『マイウェイ No.69』には「横浜ふるさと歌物語」と特集が組まれ、明治期に歌われた「波止場船頭歌」や「横浜市歌」をはじめ、さまざまな古い歌が記録されている。
加藤さんは「横浜の人は横浜という地に強い思い入れがありますよね。その象徴となるような歌はないかと探してみたら『浜自慢』という歌がありました。その歌に共感したので、現代に復元しようと思ったんです」と、そのページを開いた。
『浜自慢』作詞:原三溪、作曲:吉住 米(『マイウェイ No.69』56Pより)
題名の通り、横浜のいいところが全て入っている歌で、作詞は横浜にゆかりの深い原三溪(はら・さんけい)氏である。
1925(大正14)年に作られた『濱自慢』は、1923(大正12)年に起こった関東大震災の復興にかける思いが込められた歌だ。
残念ながら、冊子には五線譜の記載が無く、探してみたが音源も手に入らなかったので諦めかけていたという加藤さん。しかし「三溪園で東日本大震災の後片付けをしていた際、『濱自慢』の音源が奇跡的に見つかった」というニュースを知り、その報道がテレビで流れた際に原曲がかかっていたとのこと。その原曲を富久丸さんが何度も聞いて、三味線で音を取って仕上げたと言う。
踊りだけでなく、三味線も弾く富久丸さん
『濱自慢』掛け軸(三溪園所蔵 1925〈大正14〉年)
「三溪園には『濱自慢』の掛け軸が飾られていて、この歌は横浜への愛がいっぱい詰まっているんです。原三溪さんに”『濱自慢』は、横浜芸者が受け継がせていただいてます”とご報告したいですね。いつかあの掛け軸の前で披露できる日が来たらいいなと思います」と富久丸さんがお話をしてくれた。
その『濱自慢』をぜひ聴いてみたいと、富久丸さんにお願いしたところ、ご披露いただけることになった!
三味線・富久丸さん、踊り・香太郎さん、太鼓・加藤さんによる『濱自慢』
横浜花柳界の全盛期、多くの芸者衆がこの横浜を闊歩していた時代が確かにそこにあった。が、やがて横浜の芸者はひとりもいなくなってしまう・・・。そんな歴史を繰り返さないために、富久丸さんによって復元された『濱自慢』は、横浜芸者の代表曲として今後も歌い継がれるだろう。